コラムこころの理解
第1回「こころの健康」
これから皆様とともに、「こころの病い」という現象を学んでいきましょう。
すべての心の悩みや病いは、「コミュニケーションの障害」として理解されます。私たちは他者とはもちろんですが、自分自身とも対話(=コミュニケーション)をしています。自他との対話が不調になったとき私たちのこころは不安定になります。
今回は、「こころの健康」とは何かについて考えてみましょう。「体の健康」も一緒だと思いますが、「問題」のないときはほとんど意識されません。例えれば、空気のようなものです。それを失いかけて初めて意識されます。
このように「こころ」は目に見えませんので、先人はその働き(機能)でもって「こころ」を表現してきました。それは、「知・情・意」という言葉で表現されます。「知」は知識、「情」は感情、「意」は意思のこと、と思って良いと思われます。しかし「問題」があります。知・情・意は全く別々に独立しているわけではありません。互いに干渉しあっているのです。「知識(事実)」すら「感情」によって歪められてしまいます。(例えばフェイクニュースなど)
また、人の感情は「喜怒哀楽」とよくいわれています。しかし何を喜び、何を怒り、何を哀しみ、何を楽しむかは一人一人違っています。知識はあっても行動力がないために無知に見られることがあるでしょうし、非情なために意思の強い人と思われるかもしれません。臆病なために命を永らえ、無鉄砲なために早死にをする人もいるでしょう。
こころの健康に問題があるとされるのは、いずれも常軌を逸して自・他に迷惑がかかる場合でしょう。笑いは健康のもとと言われますが、誰かのお葬式の場で笑い声をあげたら、それは健康でしょうか。怒りや哀しみのためにそれまでと同じ日常生活が送れなかったら健康でしょうか。
私たちは、お互いに「こころが健康かどうか」直観的に分かります。それは身体の場合よりも敏感かもしれません。「相互のコミュニケーション」に違和感(何かいつもと違う)が生じるのです。もっと具体的に私たちは何を見て判断しているのでしょう。それは、
- 「行動」を通じて。(表情も含みます) ある人が会社を早退したとき、その理由が「おなかが痛い。」ということでしたら、内科を受診して診断書を提出すれば、体の不調ということになります。しかし、その早退が繰り返される場合、内科的に(胃カメラなど)異常が有っても無くても、こころの不調(神経性胃炎など)が疑われます。こころに何らかの問題(無自覚な場合も)がある場合は体の不調として表現されることがよくあるのです。繰り返す腹痛で心療内科や精神科に相談に来られる方もいます。
- コトバを通じて。(心理検査も含む) こころの不調は、その原因が非常に明らかな場合からほとんど原因が分からないこともあります。そんな時は心理テストによって、不安やストレスをどれくらい抱え込んでいるかを調べることが出来ます。しかしそれも本人の言語表現能力や内省力によって分かったり、はっきりしない場合もあります。
一般的には①と②を総合すればその方がどれくらいのストレス状態にあるか分かります。
また、「愛」とか、「信仰」という言葉も人間のこころの大きくて重要な領域を占めています。ところがこの領域は精神医学では伝統的にはほとんど扱われて来ませんでした。それは、「精神医学」も自然科学であることを目指してきたからです。実験されない、計量(数値化)されないものは科学の対象から排除されました。
愛とか信仰はその対象にはなりにくいのです。しかし、「精神医学の言葉」では語れなくても、実生活では愛とか信仰がひとを支えることもあるのです。