メンタルヘルス対策とは
企業におけるメンタルヘルスケア 重要性と対策・方法とは
従業員の「心の健康」が会社の健康を決める理由
多くの企業・団体が、従業員の過労うつ診断や過労自殺防止に向けたマニュアルを作成し、早期発見、早期治療を心がけるようになってきました。しかし実は、それでは遅いのです。
もちろん、かつてのような「少々仕事がきついぐらいで参ってしまうような社員は当社にはいらない!」などといった感覚の経営者は、まともな企業であれば現在はいなくなったと思います。「こころの健康」を損なってしまった社員の早期発見・回復・治癒への配慮や専門員の配置、専門セクションの設置など、ひと昔前の企業のありさまに比べれば格段に進歩しています。
しかし、それで十分な進歩といえるでしょうか。そうではありません。本当に重要なのは、従業員が「こころの健康」を損なわないようにすることです。従業員の「こころの健康」を損なわない防波堤を作っておくことなのです。
換言すれば発症後の対応に力を注ぐのでは遅い。発症を防ぐことに全力を尽くす。そのために必要な仕事の改革、職場の改革、人事・組織の改革はどうすればいいのか?という視点が重要なのです。
なくならないハラスメント
従業員の「こころの健康」に問題がなければ、従業員もハッピーですし、その家族もハッピーでしょう。幸福度が高い従業員によって構成される企業は、そうでない企業より生産性の向上が期待できます。つまり、従業員の「こころの健康」を守る企業方針は、従業員を守るだけにとどまらず、その企業自体の価値を高め、さらにはそうした企業・団体が属する社会の健全な発展も望むことができます。
厚生労働省は2007年に「仕事と生活の調和憲章及び仕事と生活の行動指針」を策定しました。いわゆる「ワーク・ライフ・バランス」を考えようというもので、仕事と生活のバランスを良い状態に保つ社会形成を目指すものです。しかし少し立ち止まってみると、一つの疑問が生じてきます。そもそも両者は秤にかけてバランスを取るようなものなのでしょうか。よく考えると、両者は別個に存在しているわけではなく、いわば「紙の裏表」のような関係性にあり、お互いに影響を与えあう存在です。この発想がとても重要なのです。
しかし現実には、企業・団体、教育現場などさまざまな組織の中で、従業員の「こころの健康」は阻害されています。しかも問題なのは、多くの企業トップや幹部の危機意識がどこか薄いことです。確かに近年、うつ病になった社員の復帰プログラムなどを策定したり、社内コンプライアンスの強化を図る企業は増えています。しかしトップや幹部の目が届かない現場では、過酷な仕事やさまざまなハラスメント(他者に対する発言・行動等)がなくならない。ハラスメントはいじめの構造と似ていて、やられる側の心理は深刻なのですが、やる側には「加害者」意識が低いということがあります。むしろ無意識にやってしまうことすらあるのです。
「ここで頑張らないでどうする」「お前のやる気はその程度か」「俺が若いころは、こんなもんじゃなかった」。それが叱咤激励であったり、「お前だけが辛いわけではないのだ」という説得の意味を込めていたとしても、現実には、本人の意図とは関係なく、力関係で下に位置する相手を不快にさせたり、プライドを傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えてしまいます。この結果「こころの健康」を損ない、休職に追い込まれる従業員たち。過労死、過労自殺も後を絶ちません。政府は2014年に過労死等防止対策推進法を成立させましたが、その後も大手広告代理店の女性社員が過労自殺するなど問題は深刻化する一方です。
日本が「奇跡の復興」といわれる高度経済成長を遂げた裏には、休みもろくに取れず、低賃金、厳しいノルマ、「つらくても、社内競争で脱落してしまったら会社にいる場所がなくなる」といった強迫観念すら生まれるような厳しい労働環境下で、心の健康を失ってしまった名もなき多くの「企業戦士」がいました。その負の連鎖は決して断ち切られたわけではありません。むしろ、昔よりも複雑な構造となって、現在のビジネスシーンや教育現場に残留し、人々が気付かないうちにじわじわと蔓延していることを私たちは理解する必要があります。
5分間診療→薬物療法でよいのか?
かつては、過労で「こころの健康」を損なって休職する社員に、「気合が入ってないからだ」「仕事を何だと思っているのか」といった声すらあった日本の企業風土(唯々勤勉第一であること)は、確かに近年になって大きく変わり、メンタルヘルス対策を打ち出す企業・団体は増えています。しかしその実態をみると、大いに問題があります。それは「従業員の心身の健康維持を優先する」という発想にとどまっていることです。
企業の現場をみると、多くの会社の産業医は、「こころの健康」を損ない体にも変調をきたした従業員を、外部の医療機関に送り込んで診断・治療を任せるだけ。そこから先は、保険診療、わずか5分間の診療だけおこなって、あとは薬物療法というパターンが目につきます。
つまり本人に必要なカウンセリングはほとんど施されていないのが現状なのです。フォードの言葉を借りるならば、部品が壊れて車が動かなくなったから部品を修理しているだけ。これでは遅いのです。
そうではなく、従業員がうつ病などを発症しないようにするために、どのような仕事の仕組みを作り、働き方を改善するかという「事前の準備」「予防策」こそが重要なのです。
「事後対応」から「事前防衛」へコペルニクス的転回を!
心のサインに気づく重要性
精神的な健康がきちんと保持されれば、従業員は満足感や達成感、幸福感を持って仕事をし、QOL(quality of life)の高い生活が送れます。前述したように、そうした従業員の心は満たされ幸福度が上がりますし、従業員の家庭の幸福度も一般的には上がると想定できます。
こうした幸福度の高い従業員によって構成される企業・団体は、組織としての生産性、効率性、社会的価値が向上することが期待できます。だからこそ、従業員が心身の健康を維持できる仕事のスキームを作り、こころの病が発症してしまう前の小さなサインに気づく人間関係を構築することが、これからの企業の重要な戦略の一つになるのです。
外科、内科分野の身体的トラブルに比して、こころの障害は見えにくい。それゆえに、より細心の対応が求められます。
つまり、企業や団体が強靭な組織として伸びていくには、発症してしまった従業員を治療するという固陋な考え方ではなく、従業員が発症しないように心身の健康維持を図るというふうに、「事後対策」から「事前防衛策」へと、発想を180度切り替えることが大切なのです。
「従業員のこころの健康」に対する企業対応のコペルニクス的転回。これこそがこれからの企業が真剣に向き合うべき課題です。
解決になっていない今の解決策
昨今の企業・教育機関等における過労うつ・過労自殺や、パワハラ・セクハラ等のハラスメントは目を覆うものがあります。連日のように報道される家庭や学校でのDV、虐待、いじめ、暴力問題などは深刻さを増す一方です。
こうした組織・団体での人間関係の悪化や、個人の心の健全性の喪失は、この社会に複雑な形で蔓延しています。その結果、人々は不安を募らせ、希望を失っていきます。このような状況は個人・団体また年齢層を問わず、内面的な『生きにくさ』としても表現されています。
しかし現実を見ると、ハラスメントなどの問題行動に対して、その対策としていろいろな規則がつくられているものの、表面的な対症療法以上のものではないように思われます。つまり、解決になっていないのです。
いじめやハラスメントはいけないことで、自分がされて嫌なことは人にしてはいけないことぐらい、誰でも理解しています。しかし頭での理解とは異なる行動を、なぜかやらかしてしまう現実があります。そのことを認識することから、現状打開の道が開けます。
抑止力としてのコミュニケーション
組織(集団)や個人の行動の根本的な性質・傾向を自覚することによって、良い変化がもたらされます。その結果「問題行動」や「生きにくさ」、「精神的な病気」が減ることが期待されるのです。
具体的には集団や個人の「人間関係におけるコミュニケーション」というキーワードを考えていくことが重要なポイントになります。さまざまなハラスメントやうつ病、依存症等の病気が防止できると考えられます。企業・団体、教育現場において重要な課題となっているメンタルヘルス対策は、人の行動原理の大切な要素であるコミュニケーションを抜きにしては成り立ちません。
行政も動き始めていますが、企業、団体、教育現場も、今こそ足元から見つめなおす時です。私たちには、もはや悠長に構えている時間は残されていないのです。具体的な行動が必要です。はじめの一歩は、「知ること」です。既成概念、会社が決めたマニュアル、なんとなく自分の中にある「昔はよかった」意識。そうしたものを一度脇に置いて、大切なスタッフの「こころの健康」がなぜ壊れていくのかということを「異なる視点」で見つめなおすことです。これまで絶対無二と思っていたことが、案外そうではなかったということは、この問題に限らず、よくあることなのです。
自分自身をがんじがらめの思考から解き放ち、違う方向から考えるという価値を知ることが、問題解決の糸口になります。「人間関係におけるコミュニケーション」というキーワードは少し前からお題目のように喧伝されていますが、現実に、リアルな課題として自覚する人は意外に少ないのです。それは理解力がないからではなく、理解する機会がないからかもしれません。
「人の振り見て我が振り直せ」という諺は「他人の行動を見て、自分にはない良いと思ったところは見習え。逆に悪いと思ったらわが身に置き換えて、もし自分もそうであれば改めよ」という意味です。これまで考察してきた問題の解決を図ろうとするとき、このことわざをもう一歩進めて「自分の振り見て、我が振り直せ」という発想を持つことは意味があります。
自分自身が、これまで部下に接してきた叱咤激励は、ひょっとしたらパワハラではなかったのか。これまで融和を図るつもりで女性従業員に接してきたやりかたはセクハラだったのではないか。従業員が過重労働などでうつ病になったら早期に産業医に相談するシステムを作ったけれども、そうではなく、社員がこころの健康を損なわないようにする防止策こそが大切なのではないか。
自分が絶対視してきた金科玉条は、実は思いもかけずマイナス要因を生み出していたのではないか。そうした疑問を持つことが大切です。疑問を持つには、きっかけが必要な時もあります。